「自分語り」もダメなのか?

巷間「自分語り」ほど嫌われるものはない、と言う。
確かにのべつ自分の話ばかりする人は少なくない。
嫌われるのは自慢話かあるいは不幸話のたぐいのように思うけれど、どんな話題にしても「オマエの話ばっかり聴きたくないよ…」となる、「話し手側の一方通行ぶり」が「自分語り」が嫌われる原因かも知れない。

自分語りが仕事だった

私は2019年まで約6年半にわたって毎週ラジオ番組でおしゃべりをしていた。
私とアシスタントのお姉さん(以下、相方ちゃん)との話がほぼ一方的に電波に流れていたわけだが、思えばこれ、ほぼほぼ「自分語り」な状態。

パーソナリティとはある種の「自分語り」をする側で、聴き手のリスナーさんが楽しいと思えば毎週の放送を楽しみにしてくれているし、気に入らなければチューニング(今どきは「radiko」のようなスマフォアプリなので「タップ」なのだろうが)を変えればいいだけなので。

私の番組は音楽番組にカテゴライズされていて私の好きな音楽について語ることが主だが、民放番組の性格上、スポンサー様の事業についてのお話や地元についてのお話なども当然盛り込まれる。相方ちゃんが訪ねて美味しかったお店などいろんな話題や情報が織り込まれていく。

それら「自分でない人」「あの音楽」「このお店」という「自分でない」ヒト・モノ・コトであっても、すべては私や相方ちゃんが見たり聴いたり感じた情報…「それぞれの自分」たちの情報だったのである。

たとえ目の前に同じものを見ていても結果的にそれはその人が見て感じた個人の見解である、と思う。
その人がおいしい「と思った」こと、その人がおもしろい「と感じた」こと…いろんな情報について語るとはなんであれ各人の知覚による「自分の情報」を語っているもの、だと思う。
つまりはどんな話題であれ「自分語り」なのではないの?と。

すべては自分を通して知覚した「情報」

そう思えば「自分語り」を否定的にとらえるのはなんだか「コミュニケーション」そのものを否定しているように思えてなんだかもったいないような気がする。
以前の「長文」について書いた時のように、目の前の相手に対して「あぁ、この人は言いたいこと、伝えたいこと、受け止めてもらいたいことがたくさんあるのだなぁ」と聴き手にそういう「寛容さ」があってもいいのでは?と考える。

相手の「自分語り」のせいにばかりせず、その言葉の向こうにある本当の気持ちを観察してみようとする寛容さを自分はもっているか?と都度自問すること。

そこに注意を払っている自分でありたい、と思っている。
リアル、ヴァーチャル関係なく誹謗中傷やいじめなどが跋扈する今だからこそ。

では今日も最後に、一曲。

SWEET FORGIVENESS – BONNIE RAITT

ボニー・レイット 1977年の同名アルバムのタイトル曲。
おそらく本人が弾くシブいカッティングのギターフレーズから始まるこの曲は、なんといってもバースの部分で急にスローなゴスペル調になるところがさらにシブ味に磨きをかけている。

「Sweet(甘美な) Forgiveness(寛容/ゆるし)」というくらいでこの曲では男女間のやりとりだとは思うけれど(なんせ英語力はトホホなので…)、男女両性が心から許し合うことができるようになるのは…やはり永遠の課題なのでしょうかね。

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