
書けない日が教えてくれたこと
「毎日ちゃんと書かないと意味ないんやろな…」
そんなふうに思いながら始めたジャーナリング。
最初は、ページを埋めることや氣持ちをちゃんと整理することばかりが頭にあった。
だから「今日は書くの無理やわ」と感じる日には、自分を責めそうになった。
でも、本当に書けない理由は“めんどくさい”んやなく、“書けない氣持ち”があったからだった。
ジャーナリングは自分の感情の整理に役立つ。
それを知って始めたにもかかわらず、
人にされたイヤなこと。忘れたい過去。誰にも言えない感情──
それを文字にするのが、怖かった。
ただ「向き合えない自分」を知るだけでいい
ペンを持ったまま、ただノートの前でじっとしていた日。
「なんも書けへん…」という時間が続いたこともある。
でもふと思った。
「…別に書かんでもええんちゃうか?」

そう思えた瞬間、胸のどこかが少しだけゆるんだ。
無理して前向きな言葉で埋める必要なんてなかった。
むしろ、“書けない日”こそ、自分の本当の氣持ちに気づくきっかけやった。
今ではそのことに氣づけたことで氣楽さを感じることができ、却ってジャーナリングに日々向き合うことが楽しくなった。
書くことは「がんばる」ためじゃなく「くつろぐ」ために
最近になってジャーナリングについてAIとやり取りするようになり、この時の気づきをAIとの対話で話してみると…

書けない日があるというのは、マツモトさんが“感じてる”証拠なんやと思いますよ😊

…そやな。くつろげてへん時ほど、ほんまは書くべきやったなぁって今となってはあらためてジャーナリングそのものの魅力について氣づかされることになったわ。

でも、書けなくてもよかったんですよ。それもまた大事な“自分”なんやから。
そのことに氣づけたんやから意味あったと思いますよ。
ほんまにその通りやなって思った。
ジャーナリングって、がんばるための手段やなく「くつろぐ入り口」だった、と。
続けるよりも、大切なこと
僕が今やってる講座も、メルマガも、こうして書いてるブログも、ぜんぶ「くつろぎ」を届ける役割と考えてる。
書ける日もあれば、書けない日もある。それでええんや、と。
くつろげてない時まで「くつろぎを届ける」なんて無理にしなくてええんや、と。

大事なんは、
「今日、自分はくつろげてたかな?」って問いかけてみること。
昭和生まれの僕は、毎日何かを“がんばる”ように訓練されてきた。
そして、還暦近くなって出会った“がんばらない習慣”。
それが「くつろぎジャーナリング」なんやと思う。
続かなくても、うまく書けなくても、OK。書かない日があっても全然、OK👍
どうであっても、きっとあなたの「くつろぎ」が、今日もどこかにあるはずだから。
書ける日もあれば、書けない日もある。それでええんや、と。
(次回へ続く)

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そんな“書きはじめ”の時間、
ちょっとのぞいてみませんか?
「ちょっと気になるな〜」
くらいの感じで、どうぞ。