朝日が差し込む窓辺の机に、開いたノートとペン、湯気の立つコーヒーカップが並ぶ、心落ち着く朝のワンシーン。
“書けない”と感じた朝こそ、自分を見つめるチャンスだった。書くことが目的じゃなく、「くつろぎ」へと続く道になる。

「毎日ちゃんと書かないと意味ないんやろな…」
そんなふうに思いながら始めたジャーナリング。
最初は、ページを埋めることや氣持ちをちゃんと整理することばかりが頭にあった。
だから「今日は書くの無理やわ」と感じる日には、自分を責めそうになった。

でも、本当に書けない理由は“めんどくさい”んやなく、“書けない氣持ち”があったからだった。

ジャーナリングは自分の感情の整理に役立つ。
それを知って始めたにもかかわらず、
人にされたイヤなこと。忘れたい過去。誰にも言えない感情──
それを文字にするのが、怖かった。

ペンを持ったまま、ただノートの前でじっとしていた日。
「なんも書けへん…」という時間が続いたこともある。

でもふと思った。
「…別に書かんでもええんちゃうか?」

青いシャツの中年男性が静かな室内でノートにペンを走らせている様子。横には湯気の立つコーヒーマグ。
「ちゃんと書けなくてもいい」。そんな想いがふっと芽生えた瞬間、自分との距離が近づいた。

そう思えた瞬間、胸のどこかが少しだけゆるんだ。
無理して前向きな言葉で埋める必要なんてなかった。
むしろ、“書けない日”こそ、自分の本当の氣持ちに気づくきっかけやった。

今ではそのことに氣づけたことで氣楽さを感じることができ、却ってジャーナリングに日々向き合うことが楽しくなった。

最近になってジャーナリングについてAIとやり取りするようになり、この時の気づきをAIとの対話で話してみると…

o4mh

書けない日があるというのは、マツモトさんが“感じてる”証拠なんやと思いますよ😊

…そやな。くつろげてへん時ほど、ほんまは書くべきやったなぁって今となってはあらためてジャーナリングそのものの魅力について氣づかされることになったわ。

o4mh

でも、書けなくてもよかったんですよ。それもまた大事な“自分”なんやから。
そのことに氣づけたんやから意味あったと思いますよ。

ほんまにその通りやなって思った。
ジャーナリングって、がんばるための手段やなく「くつろぐ入り口」だった、と。

僕が今やってる講座も、メルマガも、こうして書いてるブログも、ぜんぶ「くつろぎ」を届ける役割と考えてる。
書ける日もあれば、書けない日もある。それでええんや、と。
くつろげてない時まで「くつろぎを届ける」なんて無理にしなくてええんや、と。

眼鏡をかけた男性が明るい朝の光が差し込む部屋でノートに向き合い、静かにジャーナリングをしている様子。
書けない日があってもいい。書かない自分を見つめることこそ、くつろぎの入り口かもしれない。

大事なんは、
「今日、自分はくつろげてたかな?」って問いかけてみること。

昭和生まれの僕は、毎日何かを“がんばる”ように訓練されてきた。
そして、還暦近くなって出会った“がんばらない習慣”。
それが「くつろぎジャーナリング」なんやと思う。

続かなくても、うまく書けなくても、OK。書かない日があっても全然、OK👍

どうであっても、きっとあなたの「くつろぎ」が、今日もどこかにあるはずだから。

書ける日もあれば、書けない日もある。それでええんや、と。

(次回へ続く)

窓辺の木製テーブルに開いたノートとペン、蒸気の立つコーヒーカップ、観葉植物、膝掛けのある空間で、胸に手を当て深呼吸しながらペンを走らせる手元と上半身のシーン