大きな出来事が自分を見直す機会に

またしても震災クラスの大きな地震が起きてしまったのでした。
2021年2月13日深夜、福島県沖震度6強。M7.3。(2021年2月14日現在)

当然あの東日本大震災を思い出さないわけはないのでした。
当日は私主催のセミナーで登壇する予定でもあったのであの日のことは忘れられない出来事なのでした。
セミナーは無事開催されましたが、会場に来られなかった方も何人かいらっしゃいました。
あの時は関西でも大きな揺れを感じ「ウワサの南海トラフ地震がとうとう来たか⁉」と妙な焦りを感じたことを思い出します。

あれからちょうど10年目の矢先の今回の地震。
今のところ壊滅的な被害が出ているわけではないようですが、それでも今後10日以内に同規模程度の余震ないし本震に注意が必要なのはこの間に起きている熊本地震をみれば可能性は決して低くないわけで。

いずれにしてもご自愛いただきたく思います。

日常を失ったあとに気づくこと

さて、こうした大きな天災の後は否が応でも一定期間、非日常の生活を強いられることになります。
それまで普通にあったものが、失われてしまう…。
それは日常の電気、水道、交通といったインフラが機能しなくなったり、そこから食料を主にした物資の確保といった生活面は大きく違ってしまいますし、以降仕事の再開の目途が立たず事業や職を失う方も多くいたでしょう。経済的な不安だけでなく、身体的にも傷病を抱えてしまう人もいらしたでしょうし、その果てには当然多くの犠牲が発生してしまったわけです。

あまりにも失うものが多かったであろうことには間違いがありません。

しかしながら時を同じくしてこの世のどこかで
多くのいのちが同時に誕生しているはずなのでした。おそらく。

そして見直さなければならないこともたくさんわかりました。

自衛隊や医療従事者の皆さんへの尊敬と感謝
他方、自己保身に走る人々の哀れさ
エネルギーのあり方や、その運用方法
「生きるため」以外の理由でなされる略奪や暴力
混迷の時に起つ真のリーダーとは?

…などなど。

これらは直接経験しなくても心を働かせれば(「頭」ではなく)
では自分は今後どうあるべきか
この光景に対してどこに光を、希望を見るか
そしてそのために自分は何をするのか

といったことが自然と思い至るのではないか、と私は思っています。
それは自分自身のこれまでもっていた価値観の見直しにつながると思うのです。

失ったあとに起こる「転生」という意識

そのキッカケはもちろん天災でなくとも構わないのです。
ある人にとっては大病を患った時かもしれませんし
私のように失業や大きな借金などで財を失う憂き目にあった時かもしれませんし
またある人は大きな失恋をしたり、離婚、死別など親しい人との「別れ」かもしれません。

人はそうした大きな出来事…それは他人がどのように判断しようがそのことはどうでもいいのですが、そんな出来事に直面した時は、たとえつらく悲しい苦しいことであってもそれは大きなチャンスなのではないか、と思うのです。

それはいわば「生まれ変わり」であり、その大きな痛み苦しみとはさながら「死」と言う最期からまるで転生するかのような出来事なのではないか?とすら思えるのです。

実際に転生を経験していないからなんともはや心もとない表現かもしれませんが、そうした想像力を発揮することはとても大事ではないかと思います。
また、さらに言えば、実際にそのようなドラマを経験していなくとも、己の想像力を使って意識を変えて、目の前の出来事を見直し、違った見方、違った自分において新しい気持ちで臨んだりやり直したりすることは十分に可能であるし、価値があることだと思うのでした。

最後に

「思いやる」という言葉は相手に慮って心を寄り添うという意味の言葉ではあると思いますが、それは同時に自分自身においての見直しへ一歩を踏み出すための行動につなげてくれる心の行動を表す言葉であったのかもしれません。

昨今…特にこの一年ほどあらためて自分にとって大切だったのではないか?ということとして
「祈り」と「信仰心」について頻繁に…いや、ほとんどずっとと言っていいほど思いを巡らせています。
そうしたことも何かシェアできることがあれば少しづつ触れていきたいと思っています。

ともあれ、皆さま引き続きくれぐれもご自愛くださいませ。お互い様、として。

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