「長文」は本当にダメなのか?

私が若い頃には人生の先輩たちやマスコミやらが「若者の活字離れ」「今の若いヤツは本を読まない」てなことをよく言われていたものでした。

そして時は流れ、インターネットの時代に突入。活字離れ・本離れはやはり一層続いているのだろうと思いきや、むしろ逆に多くの文字に、しかも毎日触れているのではないか、と思うのです。

それはインターネットを使うようになってからの方が文字情報を受信する機会が圧倒的に増えたのではないか?と。

ネットメディアの歴史をたどると

思えばインターネット黎明期以前には「パソコン通信」というものがあって、やり取りはテキストのみ。今のメイルやチャットの走りみたいなものがあって、ワープロなどでも使えていました。

その後の「ホームページ」の誕生があり、HTMLのみによる表現は文字が主体。そして21世紀を迎える頃には徐々にPCや通信インフラの進化とともに大きな容量のデータが扱えるようになり、大きくキレイな画像やイラストを使ったサイトも増えてきました。一方で、2chやブログの台頭、ICQなどチャットソフト(今でいうメッセンジャーのようなもの。当時は「アプリ」という言葉はまだなかった)の流行、mixiを皮切りにまたたく間に広がったSNSの登場により、もはやインターネットによる情報コミュニケーションは爆発的に広がり、生活に欠かせないものになったのでした。「ITバブル」という言葉流行ったのもこの頃でした。

そこから20年ほど経った現在、流行病の影響もあって時代はYoutubeやZoomなど動画をベースにしたサイトに参加する人口が増え、最近ではClubhouseなる音声チャットSNSなども登場しています。
それでもLINEやfacebookメッセンジャーなどの「文字」をベースにした気軽な会話や連絡ツールを使ったやりとりはむしろほぼ常態化していると言っていいと思います。

こうしてみていくと、それら主だったメディアコンテンツはほぼ「文字」情報なのでした。媒体が「紙」でなくなっただけで「文字」を読む機会は私の若者時代より圧倒的に多くなったように思えます。

文字情報にあふれてはいるものの

しかしながらこれが「長文」ともなるとそうもいかない様子。

文字を読む機会は増えたものの、やはり長い文章…長文ともなると心理的にハードルが高いことには変わりがないようで、それは「速読」ブームがあったり、「短くまとめる文章術」みたいな本が巷に増えているように思ええることからもうかがえます。
とはいえ、これらを学ぶには「活字」を最初に読まなければならない、しかもそれにもそれなりの分量のページが…というのがなんとも皮肉(笑)

私は割合書くのが好きな方なので、書いているとつい自然と長くなりがち。商業出版の際にはそれは大変役に立ちましたが、やはり読み手側の多くの方には敬遠されがちだろうな、と思われます。そのため、これまでにも自分の記事はもちろん、人様のブログやSNSなどのコメントなどでもつい長くなってしまい、書き終わってアップしてから反省することもいまだに多いのでした。実際に私の書籍でもAmazonのレヴュー欄には「暑苦しい」「疲れる」といったコメントが寄せられていたものです…(ぴえん)。

やはり手短に言いたいことをサクッと書いて表現できることが美徳、というのが世間様でのおおよその見方であります。

長文書きは嫌われる(…私のような…)

のでした。

結果がスグほしいのはわかるけれど

とはいえ、内心はどうにも釈然としないところもあります。
Q&A的に物事について解決したり、A=Bである式の簡潔な説明ができることもありますが、どうも世の中そんなに単純ではないのではないか?と。

素早く的確な答えを求める気持ちは、私も人の子なので大変よく理解できるのですが、そう単純なものではないことも世の中には多くあります。と言うより、そうではないことの方がほとんど。こと「生きる」ことにおいては、だからこそ人は悩み、考え、工夫し、行動することで、それが新たな自分の血肉となっていく…これは人類誕生からそう大きくは変わっていない気がしています。

思うに「生きる」ために人は言葉を獲得し、駆使し、今に至っている、のではなかったか。ネットメディアになってもこれだけ文字情報が使われていることもまだそれは脈々と続いてる表れではないか、と。

誤解を生じさせないためには、ひとつの解に対して多くの情報を説明しなければならないことは多々あって。さらにその状況を説明するために時には例え話や共感を得るために具体的なエピソードが必要な時もあります。

つまり、何かを大事なことを伝えるためには多くの情報を語ることが必要な場合もある、と思うのです。

「長文書き」のおかげで「本」が書けた

私事ですが昔、それこそmixiというSNSで毎日日記を3年半ほど続けていたことがありました。

その時の私は田舎のサラリーマン・デザイナーでした。しかしながらコツコツ毎日数行でも書き込みを続けたことによって多くの人たちと出会うキッカケとなり、やがて出版に結びつくことになったのでした。
そしていざ本の原稿を書き始めるとなるとたとえビジネス書のようなノウハウ主体の比較的内容の軽めのものであっても商業出版ともなると一冊あたり200ページ超相当、字数にすると10万字、400字詰め原稿用紙で実に250枚という分量を書けなければならないのでした。

共著でそこまでの分量でなかったとはいえ、私はその原稿を実質3週間という初出版の人間としては非常にタイトと思える時間にやり遂げることができました。「長文」を書くことは少なくとも私にとっては人生を変えるチカラになってくれたと思っています。

もちろん期待に添えられなかったことの方が多かったかもしれませんし、お求めくださった方の時間を結果的に奪ってしまったかもしれず、そのことは真に反省しなければならないと感じています。

しかしながら、お読みになっていただくことで何かひとつでもプラスになってほしい、という思いがあればこそその分量を書くことに臆することなく全力を注ぐことができたのだと思っていましたし、実際に「ためになった」とのお声を少ながらず中には直接いただけたのも事実です。

私にとってその未知の領域の長文を書くことを怖れずにできた基になった出会いがあります。
mixiがキッカケとなって知り合い今も心で尊敬する人生の師とも呼べる方が私にこうおっしゃってくださったことがありました。

「お忙しい先生に宛て、つい長い文章となりお時間取らせてしまうことになってしまい、大変申し訳ありません。どうにも自分の思いばかりが先走ってしまい、いけませんね」
と私が反省交じりの謝辞を直接述べる機会がありました。するとその方は

「長くなるのは言いたいことがたくさんあるから。今まで言いたくても言えなかったことが多かったのですね。お気になさらないで。私はすべて読ませていただいております。」

と話してくださったのでした。

今でもその時のやさしい微笑みとお声を思い出すことがあります。

長文だからダメ

ではないのでした。

「何も伝えない」よりは

もちろん長文ニガテな方々がすごくたくさんいらっしゃるのは事実。

それでも常に自分の思いに正直に、そして何か本当に心からの声を届けたい、と思った時には失敗を怖れず臆せず表現してみる。伝えてみる。

その文章の中に誠実な思いさえあれば、決して多くはないけれど、誰かがきっと受け止めてくださる。かつての私の師のように。

捨てる神多けれど、拾う神もいる。必ず。

多くの意見を気にしすぎて肝心の自分の思いを伝えることをやめてしまわないでいたいものです。

以上「長文」は本当にダメなのか?
という長文…でした(笑)

「長文書き」のおかげで書けましたw

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