なにもない、を恥じることなし

いやぁ…あっっっつい!
すっかり外は春。桜も全国的に満開を過ぎ、今週は関西でも日中20℃越えが続いています。

世間では明日、4月1日から新年度を迎えることになり、新生活に向け心躍る人も多いかもしれませんねぇ。
でも一方でどこかそんな世間の風に乗りきれない人もたくさんいる、と思ったりします。
周りがざわざわしてくると落ち着かなくなる人もいると思うのです。
例えば私のようになかなか仕事が見つからない人や不登校気味になっている人など。
なんだか自分だけがこの世の中ら取り残されている…そんな気持ちでいる人も決して少なくないと思います。


そうした人様をうらやむ気持ちっていつのまにやってきてこころの中に忍び込み居座ってしまうことがあります。
そしてそんな浮かれムードに乗り遅れた自分にまたぞろダメ出しをしてしまう…
自分にはなにもない、と。

私も長年「自分には他人に誇れるものなど何もない」と思ってきました。
その「何もないこと」が足かせになっている、とずっと思ってきたのでした。

特に結婚して田舎に移住してからは仕事もない、友人もない、という状況でした。
そんな中、有り金をはたいてパソコンを買い、ネットを通じてブラインドタッチを覚えたり。
東京で活動しているデザイナーさんたちと交流したりして独学でデザインの勉強を積んでいました。
30代半ばからは会社に行きながら週末や有給を利用して大阪まで片道2時間以上かけて経営セミナーにも参加。
さらにセミナー講師になるべく、スピーチ教室に通うなどして自分のスキルと人脈形成のためにがんばってきました。

…これらはすべて

 

自分は何もない
自分は何の才能もない
他人に誇れるものなどない

もっとやらなければ
もっとできなければ
もっとがんばらねば

自分は足りない
圧倒的に劣っている
まだまだこんなもんじゃない

との思いから、でした。

 

それらすべて「自分の思い違い」だったのでした。
そして以前書いたように
結局はすべてを手に入れたいという思いは
すべてを失うことになってしまったのでした。

 

 

確かに行く先々で謂れもないことで叱られたり
笑いながら悪態をつかれたり陰口を叩かれたり
いろいろとあったことも事実。
で、それをマトモに受けてしまうとやはりそこはそれ、男の子としては頑張ってしまうわけで(笑)。
そのことがさらに自分自身にムチを打っていたのでした。勝手に自分が人様と比べて。
それもこれももとはといえば「なにもない」ことに対する自信のなさの仕業だった、と今ならわかります。

 

結局「ない」と思い込んで求め、探し、あくせくし、戦って戦って…
それでもまた負けて、泣いて、また落ち込む…
もはや万策尽きた、と思った時に芽生えたのが

自分にはなにもない、と誰が決めたの?

誰もなにも言っていない。自分で「ない」と思っていただけだった。

窓の外に目をやれば
太陽は昇るし、沈む。
鳥はさえずり、どこかの猫は塀を行き来する。
皆、エサを求める以外に誰とも比べない。
ただこの時をいつものように、生きている。
彼らは自分を誇ることなどなく、ただこの時を過ごしている。

そして人はみな

空をただ眺め「美しい」と言う。
鳴き声に「綺麗だ」と言う。
往来を見て「愛おしい」と言う。

彼らはただ「ある」だけで、なにもしていない。

太陽であること
鳥であること
猫であること

つまり彼らは彼らであることを当たり前に過ごし
「なにもない」などということを感じてさえいないかのようです。

そう、感じることなどなかったのです。
「なにもない」ことを恥じる必要などなかった
ということです。

ただ生きているだけで誰からのためになっている

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