自分も他人もゆるす練習

求職活動中の合間にひさしぶりに自宅に戻っていました。
実に4か月ぶりの家族との再会でした。
緊急事態宣言中は家族に無用な心配をかけてはいけないと正月も帰らなかったので。

そんな中で「さぁもうそろそろ寝ようか」といった時間
地震に遭いました。
私の自宅は震度2程度でしたが
それでも音を立てての横揺れが10秒ほど続きました。

そこから布団の中で地震速報のサイトを見ていたのですが
そこのチャット掲示板に

「和歌山だからよかった」という一行を見つけました。

それだけでも不快なものです。
しかし、あろうことか

「もっと地震こい!」

などという書き込みもありました。

残念ながら、この世とはこういうものなのでしょうね。
悲しいですが。

こういう場合はついつい言った相手に対して
怒りの感情を持ってしまいそうになります。
でも、できることならそれはやめておきたい。

「怒り」という感情は「反射」です。
ある意味自分を守るために動物に備わった本能のようなものです。
私たちは人間なので動物でもありますが
人間としての「こころ」を持っています。

理性を働かせる
仕返しをしない
他者を思いやる
…そして。ゆるす。

そりゃそう簡単にできれば苦労はしない、と言われるかもしれません。
私たちは釈迦やキリストに比べればはるか遠い存在のように思えます。
しかし、彼らとて初めからそうだったわけではない、と思うのです。

あくまで想像による私見の域を脱しえない話として思うのは

きっと彼らは
目を閉じ、深く息をし、そしてその自分の反応を受け止める。
痛みや苦しみ、悪夢のような出来事に出会っても
まずはただこのことだけに集中してきたのではないか
と思うのです。

誰のせいにもしない。
そして感じたことは「無」になろうとすることで
やがて消えていく。

そんなことはなかったのだ、と「感じ直す」ことで
自分の痛みを消し、そして遭遇した悪行でさえも
「ありもしなかった罪」として自分をゆるすことで
同時に相手もゆるしていたのではないか、と思いめぐらせます。

私も自己流ながら、毎朝の瞑想習慣を持ってすでに数年が経ちます。
さすがにすっかり怒りも痛みを消えた、とは言い難いところも。
けれど、そのそれらに即座に反応し、挑発に乗るようなことはないし
いつまでもそのことにクドクドと思いを引きずられたりすることは
徐々になくなりつつあることを実感しています。

とにかく立ち止まってみる。
立ち止まることに罪悪感ははさまない。
仮に怒ったりすることがあってもいい、と自分を認める。
そしてそうなったらなったでこころで取り消す。

湧きあがった情動という反応は気づいたらすぐに消す。
最初はエクササイズのようにやってもかまわない。

まるで壁打ちテニスのように何度も何度も繰り返す。
そのことが自分をゆるし、そのことが結局は
他人もゆるすことになるのではないでしょうか。

つまり


誰にも罪などなかった
自分が怖れていた悪夢などなかった


ということを知る練習になるのではないか、と思うのです。
毎日目を閉じるたびに。

今日は遅くなったのでこの辺で。
いつものおススメ曲紹介がなくなりましたが…どうぞおゆるしを(笑)

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