期待を、手放す

3月から無職生活が続いていることは以前書きました。

今(2021年3月18日現在)も毎週数社の応募をしていますが
これといった結果につながるようなお返事はまったくいただけていません。
とはいえ、前にも書いたように条件では相当厳しいことに変わりはないので
焦りは…ほぼ皆無です(笑)

生きているとどうにもならないことも多いのです。
というかむしろほとんどがどうにもならないことかもしれません。

そう考えると過ぎた期待は徐々になくなってきます。
「期待」とは自分の思惑にハマってほしい、というただの願望にすぎません。
「自分の都合を相手に理解してもらいたい」とも言えます。
それはある意味「虚しい望み」かもしれません。

自分のチカラではどうにもならない
との思いの時、ついその思いを
誰かに、何かに
丸投げしてしまうことが多かったと思います。
それがまさに「期待」であったし「依存」でもあったのでした。

それを繰り返していても
待っているのは虚しい「裏切り」
と本当の自分は数えきれないほどの傷みの経験から知っています。
しかし、たまにある「達成めいたもの」がその思いを
ひととき忘れさせるのでした。

そしてまた、その甘美な思いの燃えカスを信じて
またぞろ「期待」を繰り返す…。

思えばそういう人生だったような気がします。
特に若いときほど。

齢50を過ぎ
その「虚しい望み」の存在に気づいてしまっている自分がいます。

しかし、それは自分にとっては大きな学びでもあります。
「またどうせダメだろう」
「そうカンタンにオレの魅力などわかるものか」
などという自分自身で捻じ曲げたわが心「拗ね」
それこそが自分にとってはよくない結果をもたらすもの
と気づくことができたのです。

自分の望みと結果を照らし合わせて
一喜一憂していた…そのことこそが
長く自分を苦しめていたことに気づいたのでした。

もはやこれ以上虚しい思いはいらない。
もう自分の思いを人任せにはしない。

と、自分の中ではたと気づいた時
つまりこれが「腹をくくる」ということなのだ、とわかった瞬間でした。

はやる心を鎮め、はしゃがず、ただ結果だけを粛々と待つ。

「他人様、世間様のせいになど到底できない」
「自分の人生に責任を持つ」ということが
なにかようやく今にしてわかってきたような気がしています。

そう思うと
失うことは大きな学びであり
ゼロになることは新しいエネルギーを迎えるため。

このことをようやく「腑に落ちた」と実感しています。

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